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レイキャヴィークの歴史 |
| ■874年〜1200年:インゴゥルブル・アルトナルソンとその末裔
北欧ヴァイキングによるアイスランドへの最初の定住者はインゴゥルブル・アルトナルソン(Ingólfur
インゴゥルブルの家族や素性については余り知られていない。判っているのは彼の妻の名前がハットルイエグ・フロゥザドゥッテルであり、ソゥルステインと呼ばれていた息子がいたこと、更にはヴィーフィットルとカルルという名の奴隷2人がいたという程度だ。 873年或いは877年に(インゴゥルブルのアイスランド到達が870年か874年かによる)、一家は現在のアザルストライティ通りにあたる場所に農場を造るがその地所は広大なもので、その範囲はクヴァルフィヨルズゥル湾のブリニューダルスアゥ川からアゥルネスシースラのオルブスアゥ川に至る。インゴゥルブル夫妻の男系の子孫は最初の定住者の末裔としてのステータスを重視されて、宗教的には勿論政治や揉め事等あらゆることを司る指導者としてゴジ(Allsherjargoði)の地位にあった。彼らは、アイスランドの歴史の個所でも触れたように、定住がほぼ確立される少し前、地方議会を創る動きが始まるがレイキャヴィークの北にあるキャラルネスの地方集会創りに着手している。これが930年になって世界最古の民主議会アルシンギの設立に大きく寄与することになる。インゴゥルブル夫妻の孫に当るソルケル・マゥ二はアルシンギで最も高い役職者であるロー・スピーカーであったし、その息子ソルモゥズゥルは西暦1000年アイスランドがキリスト教へ改宗するときのゴジとしての地位にいた。 別掲「アイスランドへの定住」で触れているようにインゴゥルブルがレイキャヴィークに農場を造り家を建て定住することを決めたのは神のお告げによるとされている。しかし、なによりも重視されたのは、レイキャヴィークの温和な気候、船の係留条件がいいこと、広大な農業に適した低地、沿岸には流木がたくさん流れ着くこと、燃料となる沼鉄鉱や泥炭が確保できる湿地が多いこと、温泉が豊富なこと、湾は良好な漁場であること、海鳥の卵が簡単に手に入り、アザラシ猟もできること、放牧に適していること、近くの島々に可耕地が多く、鮭が豊富な河川があることなど、数え切れないほどの自然条件に恵まれていることであったに違いない。結果的にはインゴゥルブルは最高の選択をしたということになる。 広大な地所の所有者としてインゴゥルブルはアイスランドの南西部において誰を定住させるかについて強大な勢力と影響力を持っていたようだ。インゴゥルブルの没後、レイキャヴィークの地所の範囲は次第に減少するようになる。レイキャヴィークの衛星都市のひとつセルチャルトナルネス(Seltjarnarnes)にはレイキャヴィークに匹敵するような大きな私有地があったが、恐らくインゴゥルブルの末裔が保有していた財産の一部だったと思われる。 西暦1000年以降、レイキャヴィークの不動産については元の所有者が誰だったかという論議がなされることは稀であり、インゴゥルブルの家族は歴史のページから消え去っていく。 ■1200年〜1750年:ヴィーク(農業)&ヴィーズエイ(修道院)の時代 1200年〜1750年の時代には、今のレイキャヴィークの随所に大小の農場が点在していた。レイキャヴィーク荘園の地主は単に湾を意味するヴィークとこの地を呼び、漁業と併せて伝統的な牧畜や農業に従事していた。この時代の初期の頃にはヴィークの農夫に関して書かれたものはほとんどない。中世期後半の資料には、有力者としてはっきり分類されていないものの彼らはかなり裕福な農夫であり、地区の指導者として議会への代表者であったと記されている。1200年またはそれ以前に教会が建てられているが、教会はアザルストライティ通りにあった農家の対面にあった(現在は小さな公園フォゥゲタガルズルインFógetagarðurinnになっている)。 17世紀初頭、レイキャヴィークにおける最後の個人土地保有者の死後、その不動産は国家によって購入された。そして政治と交易の権限は、修道院、教会や王が土地を蓄積してきた南部のファクスアフロゥイ湾の南に集約されていく。1346年には勅許の知事官邸がべッサスタジル(現在は大統領官邸がある)に設立される。1226年にはヴィーズエイ島にオウグスティ デンマークで宗教改革が起きたとき、デンマーク王の代表代行だったディドリック・フォン・ミンデンは1539年の聖霊降誕日に修道院を強制的に没収し、修道士に攻撃を加えた。1550年にアイスランドでは宗教改革が完了するが、ヴィーズエイ修道院は解散させられ、その所有は王のもとに渡された。この後、建物はべッサスタジルのコントロールから離れ、一種の老人ホームとして運営された。1987年―1995年年にレイキャヴィーク市立美術館によるヴィーズエイ島の考古学的調査が実施された。その結果興味ある発見が数々あり、その多くは修道院関係のもので、極めて珍しいろうタブレットも見つかっている。 ■1750年〜1800年:村の誕生 17〜18世紀における重商主義的思想によって、ヨーロッパに芽生えた関心事は国内産業を確立し、私的企業を育成することによって国家の発展を促進することであった。デンマークの権威筋はアイスランドにこの政策を導入すべく体制を作る。アイスランドに産業を確立させる目的で設立した新しい会社インレッティガル(Innréttingar)をバックアップするというもの。このネーミングはデンマーク語の企業を意味するIndretningerのアイスランド造成語である。レイキャヴィークとオルフィリスエイ島にある王室の土地や資産は財源としてこの新会社に割り当てられた。新会社インレッティガルのために1750年代だけでも16ものビルが建築された。このことがレイキャヴィークを村へと変遷発展させるきっかけとなる。16の建物のうち二つを除いては跡形もなく消滅している。残存する二つに関して言及すれば、アザルストライティ通り10番地にある住居はほぼ原型のままに復元され、また、アザルストライティ通り16番地の建物はかなり変更が加えられている状態。 デンマークやドイツの工芸職人はアイスランド人に高度な工芸品つくりの技術を教え込んだ。新会社が発足する以前はほとんどの労働者はアイスランド人であった。新会社の第一の狙いはアイスランドに広範囲に経済的ルネッサンスを持ち込むことであった。最初に漁業において、次いで造船、農業そして硫黄採掘と技術の導入が進んだ。主要な企業はウール製品の製造のための建物が建てられ、織物作業が集中するレイキャヴィークに位置していたがその中心はアザルストライティ通りであった。紡ぎ車やモダンな織機のような新しい器具が輸入され、レイキャヴィークではロープ製造、樽製造そしてなめし革製造など異業種に関わる会社も設立されるようになる。 工芸職人の仕事場と数件の住居を除いてレイキャヴィークで最初に建てられた建物は大きな石造建造 1767年になってインレッティガルは衰退し、たくさんの従業員が大幅に解雇された。ウール産業が復活するのは1800年に入ってからとなる。 ■19世紀全般:交易と工芸技術の発達 レイキャヴィークの沖合にある島ホゥルムリン(現在のグランダホゥルム)に、交易に関する最も古い史実が残るがそれは1521年の話である。1700年、貿易業者ビルはオルフィリスエイ島に移築され、更に、1759年にはレイキャヴィークに移される。商業ビルは1780年まで島に残っていた。 デンマーク王が1786年8月18日独占交易の廃止を宣言したのに続いて同年11月17日には6つの自治体に排他的交易特許が与えられた。これらの自治体の中でレイキャヴィークだけが永久にその交易免許を保持できるとされたが、その交易権はまだまだデンマーク王の支配を受ける制限されたものであった。その結果、貿易の大半はデンマーク人商人によって牛耳られて続けられていたのである。 1787年2月、ひとつの調査がレイキャヴィークの交易自治体に関してなされているが、それによるとこの地域にいたのはスンチェンベルグという名前のデンマーク人商人ひとりだけで、かつてこの地域の独占交易許可を保有していた商人だとある。彼の会社はレイキャヴィーク最古の通りアザルストライティ2番地にあったことも判っている。1年後、ノルウエーのベルゲン出身のハンス・クリスチャン・フィスケルが最初の新貿易業者となるが、場所は現在のアザルストライティ通りの3番地とされている。 そしてここからレイキャヴィークの交易は競争/競合の時代を迎える。数年後、10人乃至12人のデンマーク或いはノルウエーの実業家が現在ではハプナルストライティ通りになっている沿岸に商業ビルを建築する。彼らのほとんどは自分の母国たるデンマークやノルウエーに居住し、支配人や代理人を雇って日々の業務を遂行させて会社を運営していた。取引員に加えて、事務員、店員そして職人にはレイキャヴィークの町の自由人となる資格が与えられた。その結果、レイキャヴィークはいろんな分野の職人を惹きつける魅力の町になっていく。レイキャヴィークの交易商人の店は一般的にデンマーク形式で低い屋根のタール塗りの木造の建物であった。寒々として、薄暗く、扱う商品もごじゃごじゃとしていた。金銭による取引は19世紀の終わりごろまでほとんどなく、物々交換が取引の原則であった。 アイスランドの商業史に於ける第2の大きな転機はすべての国民に自由交易を認める制度が導入された事である。1855年のことだ。1880年を過ぎる頃から、アイスランドの商業動向は新しい交易相手が増加し、取り扱う商品が大幅に増え、更にはサービスが改善されて大きく変貌を遂げる事になる。デンマークの支配がなくなり、アイスランドの交易業者は取引のシアーを大きく伸ばし、商売上の新たな結びつき、とりわけノルウエーやイギリス諸島との関係が確立されていった。 ■1870年〜1918年:首都としての夜明け 1874年、アイスランドは定住1000年を迎え、これを祝う記念式典が実施されたがレイキャヴィークにとっても重要なイベントであった。町は華やかに飾り付けられ、道路は拡張され、修理が施され、オイストゥルヴォットルは町の広場にされ、その中心にはアイスランド系デンマーク人彫刻家ベルチル・ソゥルヴァルドセンによる像が据えられた。この後直ぐには、この広場にレイキャヴィークでは初めてとなる街灯が取り付けられている。1881年には国会アルシンギがこの広場の傍らに築かれた。国家主義的傾向がこの町に芽生え、育ち始め、そしてそれはより社会的且つ文化的な活動や出版物に反映されていく。レイキャヴィークの人々によって確立された新しい自尊心は新古典派スタイルの印象的な木造家屋の建築に見て取る事ができる。土地を持たない労働者は伝統的な芝土造りの家に代って石造りの家屋を自分たちで建て始めるようになった。 1901年の初めに、レイキャヴィークの人々は新世紀を祝賀した。19世紀の後半から20世紀初頭にかけての大きな技術進歩はヨーロッパ全体に経済成長を促し、人々の考え方を大きく変えることになった。アイスランドにあっても、進歩的で科学的な考え方が歓迎されるようになった。それは20世紀を祝賀するために創作された詩からも読み取れる。レイキャヴィークに機械が持ち込まれたのは1897年のことで、それはケロシンで動くエンジンだった。 1904年、アイスランドは部分的ではあるが自治権が与えられる。いわゆる、自治政府となり、議会に報告する責任と義務を有するアイスランド独自の公使を持つようになって、レイキャヴィークに政府庁舎が開設された。こうして、レイキャヴィークは歴史的にコペンハーゲンが果たしてきた役割にとって換わってアイスランドの首都となった。このことはアイスランドが1918年にデンマーク王のもとに自治権を確保したときに完全なものとなる。アイスランドの伝統的な農村社会であったレイキャヴィークはその中心部が広がり発展し、現代的な都市工業化社会に姿を変えつつあった。大挙して人々がレイキャヴィークに移り住むようになって、人口は増え続け、この傾向は20世紀全体を通じて続くことになる。 増え続ける人口と20世紀初頭の工業化によって、レイキャヴィーク町議会はもはや責任を逃れる事ができなくなり、様々な事業計画が企図された。1908年、町長執務室が設置されたが、初代町長の事業は1909年に計画された給水設備を備えることであった。下水溝の装置も引かれ、衛生状態は劇的に改善された。1910年にはレイキャヴィークガス工場が設立されたが、これがレイキャヴィーク初の発電所となった。1921年に完成したエットリザアゥル発電所が2番目。1912年にはオイストゥルストライティ通りが舗装され、ほぼ同じ頃に最初の歩道が築かれている。しかし、何と云っても町議会の最も熱望された事業は1913年〜1917年に実行された港湾建設であった。 ■1918年〜1945年:機械化と専門化の時代 両大戦の間、たいていのアイスランドのトロール船はレイキャヴィークから出航した。漁獲量の大部分は塩漬けに加工されていた(塩漬け加工産業は従来と変わらずレイキャヴィークの町の生命を支える大きな柱であった)。第二次大戦が勃発した1939年ころ、トロール漁船は既にぼろぼろに使い古され、旧式で地代遅れの状態だった。しかし、漁船は戦争が続いている間に取り替えられることはなかった。しかしながら、第二次大戦はトロール船商売の転換期となった。ほとんどの魚が氷詰され、売られてイギリスに運ばれたからだ。産業界には電気の出現の声が大きく高まることになって、国内で最初の大水力発電計画となるエットリザアゥル発電所の第一段階が1921年に開始された。時を同じくして、ソグ川を発電のために利用する協議が始まっている。エットリザアゥル発電所に次いで2番目の発電所は1937年にリョゥサフォス滝に完成されている。 1920年代になると、レイキャヴィークに於けるエネルギー事業は天然の地熱温泉を資源として開発されるようになる。市内の温泉地帯ロイガルダ−ルルの温泉から汲み上げられた熱湯を利用し、地熱利用の地域暖房は1930年にはおよそ70件の家屋に供給されている。ここの温泉は定住の時代以来、何世紀もに亘って洗濯湯として利用されてきたものだ。第二次大戦の間にも地熱利用の地域暖房はレイキャヴィークの北にあるモスフェットルスヴェイト地区の地下から汲み上げられた熱湯を利用して、レイキャヴィークの大部分の地域に広がっていく。このことは石炭からの煙の排出の終焉と同時に、スモークレス・タウンとしてのレイキャヴィークの新スタートを意味している。 自動車に言及すれば、アイスランドには1913年までは1台の自動車もなかった。両大戦の間の時代、自動車は原則的にはタクシーやトラックなどの商業車に限られていた。レイキャヴィーク・バス会社が1931年に創立されているが、設立当時は民間の会社であった。ご参考までに2005年になって、レイキャヴィークに於ける一人当りの車の保有数はヨーロッパで最多となっている。車数は1000人に付き620台で、言い換えれば運転免許証を持っているドライバーは少なくとも1台所有していることになる。 両大戦の間の時代に於けるレイキャヴィークの商業は大型店舗から専門店まで発展している。小さな雑貨屋は街角のほとんどに有った。小売店主の中には今でいうチェーン店のように複数店舗を展開するものもこのごろに出て来ている。乳製品や精肉を扱う店も出現してくる。魚屋は荷車や手押し車で街に出て商売をしていた。衣類、靴、家庭用品、器具類など高級な商品を販売する店は町の中心部やロイガヴェゲール(現在のメインストリート)に店を構えた。オイストゥルストライティ通りはこの頃からえり抜きのショッピング街であった。 1940年の春、英国軍がアイスランドを占領する。レイキャヴィークには町の人口に匹敵するような多くの数の英国軍兵士がやって来た。1941年になってアメリカ合衆国がアイスランドの防衛の役割を受け継ぐ事になる。占領下に入る事によって、余多の仕事や技術がもたらせるようになり、不況下の失業状態が一晩で解消されたとも云われた。 ■1946年〜2000年:現代 戦後直ぐに、働き盛りの人々が町にどんどん流れ込んで来て、レイキャヴィークは人口も経済規模も村としてはかなり大き過ぎる状態になる。しかし、国としてのアイスランドは尚相対的には他の世界とは孤立した存在で、この国を訪れる外国人もほとんどいなかった。一方で、アイスランドの人たちはスポーツの世界では国際的になり始め、第二次大戦後、運動競技でかなりの成績を挙げるようになっていた。 戦後、現代主義がアイスランドに伝わって、芸術に於ける新たな発想が誕生し、1950年には国立劇場が開場、同年アイスランド・シンフォニー・オーケストラが設立された。芸術家たちがあらゆる分野で活躍し始め、絵画や彫刻などの作品が国会に隣接する展示場リスタマンナスカゥリンに展示されるようになった。 1960年代はレイキャヴィークに於ける高度経済成長の時代で空前の成長を遂げている。当たり前に乗用車を保有するようになり、多様な電気製品が家事を楽にさせた。南ヨーロッパへのチャーター・フライトが大衆化し、繁栄をもたらす成長が続くと若者文化がレイキャヴィークに根付き始めた。 この頃、アイスランド航空がアメリカ市場に向けて画期的に廉価な運賃で、レイキャヴィークでの途中降機を含む大西洋横断フライトの運航を開始し、世界一安い大西洋横断フライとして話題になっている。こうして、アイスランドは孤立した島国から少しずつそのイメージを変えていくことになる。訪れる外国人旅行者も毎年増加し始め、ホテル・サガ(1962年)やホテル・ロフトレイジル(1966年)などモダンな大型ホテルもこの時期に建築され、創業を開始している。 1970年に初めて実施され、その後1年おきに開催されているレイキャヴィーク芸術祭(アート・フェスティヴァル)はレイキャヴィークに豊かな文化生活をもたらす極めて重要な役割を果たしてきている。今や、世界的な著名人がレイキャヴィークを訪れても大したニュースにもならなくなったし、多くのアイスランド人が観光や留学のために外国に旅行するようになって、この国が歴史的に抱えてきた孤立状態を打破する手助けとなった。街中には国際的な料理の看板をつけたレストランも随所で見られるようになる。1990年代には金融と外国為替の規制が撤廃され、コンピューター革命はレイキャヴィークに新たな可能性を広げる事になる。レイキャヴィークは本来持っているユニークさ、それはかなり村落的な雰囲気か赴きを持つものだが、そのいくつかを失ってきている。20世紀初頭に発効された禁酒法の最後の名残りとも云えるビールの製造販売の規制は数十年を経て撤廃され、ビールも合法的に飲めるようになる。 ダウンタウンには次第にパブや他のナイトライフが目立つようになり、一方、ロイガヴェグール通りとクリングラン・ショッピングモールが主要なショッピング・エリアとなった。街中へのアクセスが禁じられていた犬を連れ出し、散歩を楽しむ事も再び自由になった。 レイキャヴィークの名を国際的に知ら示させたのは1986年に開催された初めての東西サミットである。サミットはレイキャヴィークの迎賓館ホプジーハウスで行われた。冷戦の終焉の始まりを告げるまさに世界史的イベントであった。 前世紀(20世紀)の最後の10年間、レイキャヴィークは国際的な注目を更に増加させている。とりわけ、 アイスランドに関心をもたらしたのはレイキャヴィーク生まれでレイキャヴィーク育ちのポップスターのビヨルグであったろう。レイキャヴィークは2000年ミレニアムイヤーにヨーロッパの文化都市ベスト9のひとつに選ばれたことはレイキャヴィークの誇りだ。
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Revised:05/12/20